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マンスリーマンション:たった1ヶ月間の駆け落ち
「私、宇宙人なの」
ミルクを落としたカップに紅茶を注ぎながら、彼女は何事もないように言った。必要以上にティースプーンをくるくると回している、俯いた彼女のその表情は読み取れない。そんな時、俺はというと円を描く彼女の指先を眺めていた。口をつけていたカップをゆっくりとソーサーへ戻す。
「どう、驚いた?」
「……ええ、まぁ。アンタのジョークがすごくつまらねぇことに驚きましたね」
真顔でそう返すと、彼女は対照的に楽しそうに笑った。
「そういうとこ。女の子にモテないよ」
「おあいにくさま。こちとら生まれてこの方、その類いには困ったことが無いですね」
「うん。悔しいけどそうだろうね。ネズくん、とってもかっこいいもん」
そんな色男のキミに、一つお願いがあります。
組んだ腕をテーブルに乗せて前のめりになった彼女は、何やら含み顔。良い予感はしない。そう思った俺の読みは、あながち外れていなかった。
「私と、恋人ごっこしませんか?」
週の真ん中、そして週末は一緒に過ごす。他の日だって、予定さえ合えば。随分と頻繁に会うものだと思った。正直、性に合わない。しかしそれも期間限定とあればそこまで苦では無かった。彼女の言う期間とは一ヶ月。彼女が何をしたいのはわからない。面倒くさいとも思う。しかし俺はオーケーを出した。何故なら、彼女のことは嫌いではなくどちらかと言えば好ましく思っていたからだ。それだけの軽い気持ちで引き受けた。
手始めに映画を観に行った。彼女が選んだのは今話題になっているラブロマンスではなく、B級のゾンビ映画だった。寂れたミニシアターのレイトショーには俺と彼女と、帰路を無くしたのであろう酔い潰れたオヤジ。ありきたりのストーリーに、使い古された演出はカビ臭いこの劇場と妙にマッチしていた。言ってしまえば、よくもコレで金が取れたものだと思う作品。それでも、食い入るように観ている彼女の横顔のおかげで退屈はしなかった。彼女の息を飲む音とオヤジのイビキが、今も耳に残る。
常に閑散とした遊園地に行った。俺たちの為だけに落ちるローラーコースターに、俺たちの為だけに回るメリーゴーランド。見てくれている人がいないと寂しいと言うから、回る円の外で彼女が来るのを一人待っていた。そろそろ来る頃だろうか。そう思っていると、俺の視界に入る前から既にこちらへ手を振っている彼女を見つけて可愛らしいと思った。木馬から下ろしてやる時に頬へ触れるだけのキスをしてやれば、彼女は大きく目を見開いて、花が咲くように笑った。
ルリナに勧められた水族館へ行った。目の前を悠々と泳ぐマンタインの群れは圧巻で、時間を忘れて目を奪われた。はしゃぐと思っていた彼女も、予想に反して静かにそれを見ていた。「自由を知らなければ、ここでも満足出来るのかしら」小さくそう溢した彼女の言葉がどうしてか、ずっと忘れられないでいる。
外食は決まって俺の行き付けの店だった。「私も、ネズくんにオススメしたいお店がたくさんあるのよ」彼女はグラスと共に首を傾げて言った。「じゃあ次はそこにしましょうか」そう言っても、彼女は「そうね! 楽しみにしていて」といつも大袈裟に明るく振る舞うだけだった。彼女が好きな店の名前は、結局知らないまま。
揃いのサングラスをつけて街へ繰り出した。いい歳をして滑稽だと思ったが、彼女とだから悪くなかった。指先を絡めて歩けば「本物の恋人同士みたい」と恥ずかしそうにしたので「本物にしてやりましょうか?」と意地悪に返せば「モテる人はお上手ね」と笑った。サングラスの所為で見えなかった彼女の瞳は、その時どんな思いを写していたのだろう。
彼女は見たもの、聴いたもの、食べたもの、その全てを初めて知ったものかのように喜んだ。初めての筈はないだろうに。その訳を聞けば「ほら私、宇宙人だから。この星のものが全てめずらしいのよ」なんていつかの冗談をまた口にした。くだらないと思っていたそれにもすっかり笑えるくらい、俺は十分彼女に惹かれていた。
「そういやそんな設定もあったね」
「あ、信じてないんだ。ひどい」
「オマエはもう少しジョークの腕を磨くべきです」
「シニカル過ぎて笑いどころが難しいジョークしか言わないネズくんに言われたくありませーん」
こんなやり取りも心地良くなってきた頃だった。こじんまりとした彼女の部屋で過ごす、穏やかな休日。裏腹に外は嵐で、強い風が窓を揺らしていた。人を不安にさせる天気だった。彼女も窓の外に目を向け、憂い顔を見せていた。安心させようと頭を撫でてやる。すると彼女は少し驚いた様子で振り返り、遅れてにこりと笑った。その表情を見てどうしてか、泣いているのかと思った。
「ネズくんと一緒が初めてだから喜ぶのよ」
「……そりゃあ、まぁ。良かったです」
「あれ? もしかしてネズくん、照れてる?」
「照れてない」
「じゃあなんでそっぽを向くの? ねえねえ」
思わぬ言葉を受けて、顔に熱が集まるのを感じた。らしくない姿を見られたくなくて顔を背ければ「ねえねえ顔を見せてよ、ねえねえ」と子供のように鬱陶しくジャレついてくるので大人しくさせようと覆い被されば、面白いようにピタリと静かになった。互いの鼻先を軽く擦り合わせる。今度は彼女が顔を赤くする番だった。「あれ? 照れてる?」仕返しにそう言ってみせれば、彼女は少女のようにクスクスと笑った。しなやかな腕が俺の首へ回る。少し上体を持ち上げて、彼女は耳元で囁いた。
「もう一つ、ハジメテを教えて欲しいの」
触れ合った身体は柔く、熱かった。時折り雷光を受けて浮かびあがる曲線の美しさ、透けているのではないかと思えるほど白い肌。掴んだ腰は恐ろしく細くて、薄い。いつだって彼女は無邪気で、少し図々しくて、俺の手を引く力は強くて、子供みたいに笑っていたと言うのに。今は全てが消えてしまいそうなくらいに儚かった。彼女が急に知らない女に見えて、どこかへ行ってしまうのではないかと思った。離さないように、でも壊さないようにと臆病になっていると、彼女は俺の腕に小さな爪を立てて懇願した。
「もっと、もっと。ずっと忘れられないくらい、ネズくんが欲しい」
そんな彼女を見て、涙が溢れそうになった理由は今でもわからない。それからは、唯一通っていた一本の細い糸がプツンと切れて本能のままに求めるだけだった。窓を叩く雨の音と、雷鳴、そして互いの喘ぎだけが響く部屋で、何度も何度も肌を重ねた。
「ネズくんのライブ、行きたかったな」
ティースプーンを一回し。紅茶とミルクがじんわり混ざり合うのを待ってから彼女が呟いた。朝日に照らされた彼女は透けてなどいなくて、いつも通りの姿だった。あの日と同じ、彼女の指先を眺めていた俺はカップをソーサーに戻して言った。
「別に、来ればいいじゃないですか」
「でもすぐにはやらないでしょう?」
「来月になりゃあやりますよ」
「私は恋人として行きたいのよ。それなのにもう、一ヶ月が経ってしまうわ」
珍しく、少し苛々としたように彼女は吐き捨てた。どこか様子のおかしい彼女を見て、昨夜漠然と抱えていた不安が再び頭を擡げる。アレは、天気の所為ではなかったのか。彼女は何をそんなに焦燥しているのだろう。まるで何かに追われているかのようだ。彼女を落ち着かせる為、そして自分の胸騒ぎを打ち消す為。間違えないように、言葉を選んだ。
「そんなの、続ければいいだけの話でしょう。このごっこ遊びを。来月だって、再来月だって。それに俺は、別に恋人“ごっこ”じゃなくたっていいんですがね」
この言葉が正解だったのか、不正解だったのか。その答えは今となってはわからない。ただ、彼女が幸せそうに笑ったから、俺は安心してしまってきっと大事なサインを見逃したのだろう。
「まるで、夢みたいに素敵なお話ね」
真珠のような涙が一粒。それが最後に見た彼女だった。
彼女はどこかの国の貴族で家出をしていたが家族に見つかり連れ戻されたらしい。いや、大病を患っていて病院の隔離施設で植物状態だそうだ。違う、彼女の過去には黒い影があってそれが原因で危ない組織に消されたんだって。どこか遠い海で身を投げたという話を聞いたぞ。
彼女の失踪ないしは消失について、様々な噂が真しやかに語られた。彼女の存在自体がゆめまぼろしであったと言う声まであるそうだ。なんて馬鹿馬鹿しい。彼女は息をし、熱を持って確かに居たと言うのに。彼女のマンションは元からひと月の契約で、俺たちが最後に会った次の日に、期日よりも早く解約手続きが取られたそうだ。無理を言って押し入った部屋で一人、カーテンが取り払われた窓から空を見上げる。夜空に浮かぶ星がきらりと輝いて、思った。
そうか、彼女は帰ったのだ。自身のいるべき星に。彼女は宇宙人。あの数多ある星のどこかにいるんだろう。それならば、撃ち落としてしまえばいい。彼女が見つかるまで、何度でも星を降らせてやる。ねがいぼしはいらない。そんなものが無くたって、願いは自らの手で叶えてやる。だからどうかもういちど、彼女よ俺のもとへ。
一等光る星に狙いを定める。指で真似たピストルで撃ってみたところでソレは憎たらしく輝き続けていて、乾いた俺の笑い声ががらんどうの部屋に吸い込まれるだけだった。

words by 甘い朝に沈む(告白はサブタイトルにて)
colors by 或子(除光液のにおい)
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