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ベランダ:室外機と灰皿と缶ビールと花火とあなた

 初夏にしては暑苦しい夜だった。クーラーを入れるにはまだ早いと窓を開け、冷蔵庫から缶ビールを取り出す。薬を飲んだばかりだったがそんなことよりもじとりと沁みる汗を打ち消したい気持ちの方が勝っていた。これからこんな不快な夜が続くのか。夏は嫌いだ。なにもかもが喧しく、煩わしい。貰い物のエールビールは美味かった。
 薬が効いてくる頃、ベッドに倒れ込んでぼんやり天井を眺める。アルコールとベンゾジアゼピンの作用でだんだん視野が狭窄してきて、やがていまが夢なのかうつつなのか判断がつかなくなる。操り人形の糸が切れるように手足に力が入らなくなり、意識が途切れる。不健康だと分かっていてもこの気だるい気持ちよさが手放せなかった。
 心地よい眠気に揺蕩っていると、ベランダから派手な物音がして我に返った。反射的に時計を確認する。たったの二時間しか寝ていなかったようだ。まだ朦朧とする頭で、上の階の人間がなにか落としたのか、それとも飼っている猫でも降りてきたのか、少し考えてみる。上の人間は確か、モデルだか俳優だかをやっている若い男だ。話したことはないがあまりいい印象はない。おそらく向こうからしてもおれの印象はそんなにいいものでもないだろう。
 とにかく知らない人間の落とし物があるのは困ることだ。ふらふらとベランダに歩み寄り、音がした方に目を凝らす。月明かりとピンクのネオンに照らされたそれは、猫でも洗濯物でもなかった。背中を丸めた裸足の女だった。
「おあ」
 呂律の回らない舌がなんとか驚きの反応を示そうと妙な声を出す。真っ先に思ったのは「やばいファンか」だった。マンションの十階、角部屋、オートロック、常駐しているコンシェルジュ——この部屋のいろいろな要素が頭の中でぐるぐると撹拌されてまた「うわ、」と間の抜けた声になって出ていった。
「あ」
 女は大きな声を上げかけ、慌てて両手で口元を押さえる。大きな目をさらに大きく見開き、おれの存在に本当に驚いたようで、少なくともおれに会いにきた反応ではなかった。
「……こん、ばんは」
 ようやく出てきたのはこの空気に似つかわしくないのんびりした挨拶だった。月が綺麗ですね、と言いかけたのを喉元で止める。
「……こんばんは」
 女も小声で挨拶をした。それから人差し指を唇に当て、瞳だけで上を向く。黒目がいやに大きいのはカラコンのせいだろう。釣られて息を潜め、階上に耳を欹てた。「ちょっと! いま女いたでしょ!」「は? 知らねーよ、てか騒ぐなよ!」「あんたの方が声大きいのに!」「うるせーな、急に来んなよ!」絵に描いたような修羅場だ。例のモデルだか俳優だかの男がキツめの声音の女に詰められている。「合鍵くれたじゃん……」かと思うと女は激しく責め立てていたかと思うと急に涙声になり、男もそれを宥める方向にシフトした。ベランダの女はその様子をサーカスでも眺めるかのような面白げな表情で聴いていた。なるほど。朧げながら、一瞬で状況が理解できた気がする。
「……とんでもねぇことしやがりますね」
「あ、うん、あはは。死ぬかと思った」
 つまり十一階のベランダから器用にここまで降りてきたわけだ。風のない夜だからよかったものの、想像するとぞっとしない。
「あー、あはは、ライター忘れちった、怒られるかな」
 シャツの胸ポケットから煙草を取り出し、女は事もなげに笑う。まだくらくらする頭と不明瞭な視界で、女の唇はやけに色っぽく見えた。柵に凭れかかって「火貸してくんない?」当たり前みたいにおれにそう言う。首を傾げる動作があざとかった。右耳にはピアスが光っているのに左耳にはついていない。わざわざ指摘するほどでもないのでとりあえずそれは放っておこう。
 楽屋からくすねてきたライターが抽斗に溜まっているはずだ。少し待っていてくださいと丁寧に答え、覚束ない足取りで部屋に戻る。なんだか足元がマシュマロのように柔らかい気がした。——これはもしかしたら夢なのかもしれないな。実際にはおれはベッドに寝転がっていて、どこからか聞こえた物音を勝手に脳内で再構成して面白い女を作り出しているだけなのかもしれない。ライターと灰皿、それとさっきのエールビールを腕いっぱいに抱えてベランダに引き返した。洒落たバルコニーテーブルなんてないから、全部室外機に置く。夢なら都合よくそういう家具が出てきてくれてもいいのに、儘ならないものだ。
「ありがと、でもすぐ出てくからさ」
 そんな風に言いつつ長い爪を器用にプルタブを引っ掛け、缶を開ける。
「別に、いつまでいてもいいですよ」
「こんな怪しいやつによくそんなこと言えるね」
 だってこれは都合のいい夢ですから。おれは唇を歪めて笑い、自分の煙草に火をつけた。ライターを渡そうとしたら女の顔が近づき、息が止まる。女の目はまっすぐおれを見ていた。
「ありがと」
 煙草同士のキスのあと、女は微笑んだ。ピンクのネオン、後ろの部屋の青白い照明、おれの顔を映したカラコンの瞳はまるで花火のようにキラキラと輝いていた。
 それから彼女はさっきまでなにがあったかをやや誇張した表現で語った。かの男とは恋人という関係ではないらしい。とにかく、そういうことを始める直前にさっきの喚いていた女が訪ねてきて咄嗟にベランダに隠された。そうしたら女がベランダに向かってきたので急いで手すりを越えておれの部屋に飛び込んだ。どうやって上手く着地したのかは覚えてないそうだ。「生きててよかったねえ」まるで他人事みたいに呟き、紫煙を燻らす。女の横顔は作り物みたいに美しくて、本当に現実味がなかった。
「さてどうしようかな」
「家はどこですか」
「ここから遠いところ」
 煙草と酒を交互に口にしながら女は飄々と答えた。
「靴も上に置きっぱなしだあ、帰れないや」
 膝を抱えてさらに背中を丸め、じいっとおれを見つめる。言わんとすることは分かった。
「じゃあ、」
 泊まっていけばいいですよ。おれはたぶんそんなことを言った。夢だから、なにをしてもいいのだ。この女の正体をひとつも知らなくても、好きなようにすればいい。
「ねえ、名前は?」
「……ネズ、です」
 小さい顔がまた近づいてきた。やけに色っぽい唇。おれの煙草を親指と人差し指で優しく奪い「ネズさん」と甘えた声で呼びかける。今度は唇同士がキスをした。煙たいキスだった。
 ああ、くらくらする。アルコールとベンゾジアゼピンとニコチンと花火のせいだ。ベッドに沈み込む身体がとても重たい。女の指先がおれの指先に絡み、初対面のくせに恋人のように寄り添った。抱きしめても女は消えなかった。女の汗が目に沁みて、これは夢ではなかったのかとようやく気づいた頃には、外は明るくなってきていた。
 
words by 甘い朝に沈む(告白はサブタイトルにて)
colors by 或子(除光液のにおい)
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