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モーニング:あなたが隣にいないことを知っている

 窓の外からヤヤコマの鳴き声が聞こえる。ぼんやりと目を開けば、薄暗い室内にカーテンの隙間から光が差し込んで、時計を見なくとも今が朝だということが分かった。
 気怠く重い身体を起こし、サイドテーブルに置いてある水へと手を伸ばす。ペットボトルが汗をかいているところを見るに、まだここへ置かれてからそれほど時間は経っていないのだろう。こくり、こくりと喉を通って、冷たさが身体の芯に染み渡っていく。乾いた土があっという間に水を吸収してしまうように少なくない量のそれを一気に飲み干してしまったわたしは、空になったボトルを蓋もしないままサイドテーブルへ放った。 
「今日も先に帰っちゃったんだ」 
 恋人と夜を過ごした日の翌朝には、女の子の夢と希望が詰まっている。シーツの感触を楽しみながら二人で寝坊するのもいい。起きたら隣の部屋からいいにおいがしていて、エプロン姿の彼に「朝ごはん出来てますよ」なんて起こして貰うのも最高だ。たまにはお行儀悪く、ベッドの上でブランチなんてのも憧れる。想像の中では、いつも二人で幸せな朝を迎えることができるのに、現実はいつだって淡白で静寂でシンプルだ。目が覚めたら隣に彼はいなくて、手の届くところに一本の水が置かれているだけ。不満な訳じゃない。けれど、それを味気ないと感じているのもまた事実だった。
「惚れた方が負けって本当だなぁ」
 ふと口に出して虚しさが倍増した。きっと彼は、わたしがお願いしたら朝まで一緒に過ごしてくれるだろう。それくらいの愛情は感じている。だけど、自分から望んで欲しいと思うのは我儘だろうか。
 もう一度喉を潤そうと水に手を伸ばしかけたところで先程全て飲み干してしまったことを思い出した。テーブルの淵で落っこちそうになっている空のペットボトルが今の自分と重なって見える。なんとなくそのままにしておく事が憚られて、蓋を閉めてゴミ箱に捨ててから部屋を出た。そんなことをしたところで、何かが変わるわけでも、心が晴れるわけでもないのに。
 
 
『今夜、空いてますか』
 そんな連絡が入ったのは、前回会った日からちょうど一週間ほど経った頃だった。こうやって定期的に送られてくるメッセージにわたしがノーと返したことはない。それを分かっているくせに、空いてますか、なんて疑問系で送ってくるところが、狡くて、それでいて好きなところだ。
『空いてるよ。いつもの時間でいいですか』
『はい。それじゃあ、仕事頑張って』
 ポンッと音を立てて表示された言葉に頬が緩む。どんな顔をしてこのメッセージを送ってるんだろう。いつも通り、なんとも思ってないような顔? それとも笑った顔や真剣な顔? 早く会って、答え合わせがしたい。

「お疲れ様です。待ちました?」
「ううん、さっき着いたところだよ。ネズくんもお疲れ様!」
 疲れてませんか、なんて言いながら歩幅を合わせてくれる彼の何気ない行動に溜まった疲れが溶けていく。するりと腕を絡めても、それが当たり前であるかのように受け入れて貰えることが嬉しい。
「そういえば、お前の好きなアレ、買ってきましたよ」
「アレ?」
「シュートシティに売ってる」
「あ、もしかしてミツハニーのあまいミツが練り込んであるワッフル?」
「ああ、それです。朝、パンの代わりにワッフルを食べるのが好きだって言ってたでしょう。ちょうど用事があったんで、そのついでに」
 あの店は“ちょっと用事のついで”で買いに行けるようなところじゃないことをわたしは知っている。シュートシティでしか買えない人気商品のため、いつもそこそこの人数が列を作っているような店だ。
 もしかして、わたしのために並んでくれたのかな。そう考えたら、胸がきゅうっと締め付けられて思い切り駆け出したくなった。人の多いところも何かを買うためだけに並ぶことも好きじゃなさそうなのに。
「もしかして、それを買ったから今日会おうって連絡くれた?」
「あー……」
「やっぱりそうなんだ、ありがとね」
「いや、違うんです」
 彼が歯切れの悪い言葉と共に足を止めるので、腕を組んでいたわたしも必然的に立ち止まることとなった。どうかしたのかと覗き込めば、困っているのか、はたまた照れているのか、あるいはその両方かもしれない、眉間に皺を寄せて視線を彷徨わせている少し血色の良くなった顔が見えた。
「……逆です。お前に会いたかったから、好きなものでも買って行ったら喜ぶかと思って」
「えっ」
 今度はわたしの頬が赤くなる番だった。そりゃあ恋人同士だし好きでもない相手と関係を持つ人でもないから、一応好かれてはいるんだろうと思っていた。けれどまさか、こんな表情でこんな台詞を言われるなんて。いくら鈍感なわたしでも分かってしまう。だって、さすがにこれは、
「ネズくん、わたしのことめちゃくちゃ好きじゃん……」
「なにを今更。当たり前でしょう」
 そうじゃなきゃ、わざわざ柄でも無いことしませんよ。そう言ってまた歩き出した彼の背中を慌てて追いかける。耳元が赤いのはきっとネオンのせいだけじゃない。もしもまた、いつもみたいに一人で明日の朝を迎えることになっても、こうして大切に思ってくれていることが分かっただけで幸せだからいいや。そう思えるくらい、分かりにくい彼の珍しく分かりやすい愛情表現が、わたしの心を満たしていた。
 
 
 窓の外からヤヤコマの鳴き声が聞こえる。ぼんやりと目を開けば、薄暗い室内にカーテンから差し込む光と、どこからか美味しそうな匂いが漂ってきていて、時計を見なくとも今が朝だということが分かった。
 気怠く重い身体を起こしサイドテーブルに手を伸ばすと、そこに置いてあるはずの水が無い。いつもならペットボトルの水がちょこんと置いてあるはずなのに。冷蔵庫から取り出されて少し時間が経ったそれは、起き抜けの身体にちょうどよく染み渡る冷たさで心地が良いのだ。
 仕方ない、キッチンまで取りに行くしかない。そう思って立ち上がろうとした瞬間、ガチャッと音を立てて開いた扉の隙間から、見慣れた男が見慣れない姿で現れた。
「あれ、起きたんですか。朝食出来ましたよ」
 羽織っただけのような白いシャツに、黒いエプロン。夢にまで見た朝の風景にまだぼんやりとしたままの頭が追いついてこない。もしかしてまだ夢の中なのだろうか。音も匂いも感触もあるとは、なんてリアルな夢なんだろう。
「なにポカンとしてるんですか。食べるでしょう?」
「……朝なのにネズくんがいるから、夢かと思って」
「夢じゃないこと、教えましょうか?」
 後ろ手で扉を閉めた彼が近づいてくる。そのままトン、と肩を押されて二人でベッドへ沈み込んだ。
「寝起きも可愛いね。朝食は後回しにして、こっちを先に食べたいくらいです」
 額、瞼、頬と唇で触れられる度、だんだんと頭が冴えていく。慌てて彼の口元を手で覆うと今度は手のひらから柔らかい感触とチュッという音がして、飛び跳ねるように手を離した。
「な、な、な、なにするの!」
「なにって、寝惚けてるみたいなんで起こしてあげてたんですよ。それとも本当に、朝食は後回しにしますか?」
 触れてしまいそうなほど近い距離で囁かれ、せっかく冴えた頭がまたくらくらしそうだった。けれどその意地悪そうな笑みから目を逸らすことも出来ない。やっぱり惚れた方が負けなのだ。
 結局のところ、彼が“ワッフルを食べてるお前が見たかったので”という理由で朝まで一緒にいてくれたことを知るのは、出来立ての朝食がすっかり冷めてしまってからだった。
 
 
words by 甘い朝に沈む(告白はサブタイトルにて)
colors by 或子(除光液のにおい)
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